第20号

卒業生からの寄稿

 「自然音のソルフェージュ」のすゝめ

土田 英三郎

 一昨年に退任する前から、在宅時には1日1万数千歩の散歩を日課としています。西鎌倉や腰越漁港、片瀬山などを歩いていると、実にいろいろな鳥の鳴き声が聞こえてきます。今(6月下旬)は燕の巣立ちの1回目。小川には鴨の親子や川蝉、鯉、稚鮎や小魚の群れ、青大将、縞蛇、赤耳亀などが結構います。鶯なんかに口笛で答えてやると、向こうもむきになって10分くらいやりとりが続きます。曰く「鳥や魚と問答する腰越の翁」の図。寒山・拾得のような庵はありませんが。

 人手の入っていない原生林の山道もわずかながらあって、十数種類の鳥の鳴き声、谷戸の底からは蛙の合唱、遠くには街の雑踏や車などの人工音。いつしかこんなことを考えるようになりました。近所の子供たちをここに集めて、まず静寂を体験させる。そうするといろんな音が聞こえ始める。地図上にどの方向からどんな音が聞こえるか、オノマトペで書き取らせる。きっと大人たちが予想もしなかった鳥声や音の聴き方、表記の仕方が出てくるに違いない。この体験を一度でもやってもらえれば、今の日本の都会には「音の掃除」が必要だということを、小さい頃からわかってもらえるかもしれない。

 そんなことを空想しているのは、駅の騒音があまりにも酷いからです。メロディーは音楽人である私たちにとって充分な意味をもってしまう。雑音・騒音以上に始末が悪い。和食店での強い香水や、喫煙所外での煙草などと同じくらい、いやそれ以上に迷惑。駅はただでさえ大音量にあふれています。安全上も、できるだけ余計な音は避けるべきでしょう。発車合図はベルのような最も単純な記号で充分。サウンド・インスタレーションはちゃんとTPOをわきまえて、人に不快感を与えないように配慮されています。駅の騒音はサーヴィスのつもりだとしたら、とんでもない頓珍漢の勘違い、おたんちんのパレオロゴス。だいぶ前の1993年にN響『フィルハーモニー』の「顧問‘ず・トーク」という欄で告発したことがあるのですが、とくに反響はありませんでした。

 日本には、岩に染み入る蝉の声や鹿威し、蹲いの水琴窟などの音から静寂を感じ取る伝統があったはず。一方で、商店街の「えらっさい、えらっさい」(サザエさん調)の売り声や、東南アジアの雑踏の独特な活気はそれなりに好ましいですが、それが自然だからです。

 上記のアイディアは、鳥越けい子さんたちによるマリー・シェーファー『世界の調律』のとても素晴らしい翻訳(1986)を書評したときから、頭の片隅にあったものです。日本には古来、かなり豊かなオノマトペの文化があります。オノマトペはその民族や地域の言語感覚、聴感覚、宗教観(法華経、仏法僧、ご吉兆など縁起かつぎも)、音声感覚などと密接にかかわっているので、壮大な文化論の材料となるはず。東アジアだけでも、洋の東西の比較でも。鳥の鳴き声のオノマトペ辞典が欲しいですね。ベートーヴェンの田園交響曲をきっかけに、音楽史における音楽オノマトペも調べ始めているところです。

 残念ながらこのプラン、まずご近所から変な爺さんと思われかねないでしょうし、子供たちに口チャックは至難のわざなので、実現は難しいかな。

 


楽理科の「魂」

海老原 光

 1993年度(平成5年度)入学の海老原光と申します。楽理科を5年で卒業後、1年の浪人期間を経て音楽教育の修士課程を3年で修了。その後指揮へ転向し、現在オーケストラを中心に指揮活動をしています。

 指揮者になって一番驚いたのは、あらゆる仕事の現場で楽理科の同窓生とご一緒する機会の多さです。音楽評論から音楽事務所、オーケストラの事務局からホールの事業担当・客演した大学オケの部長、そして音楽家。既存のものへの鋭い批判精神、社会と音楽業界への強い好奇心と高い問題意識、そして何よりも音楽への献身的な愛情。お会いした全ての方に共通するこれらこそ、個人的には楽理科の「魂」ではないかと感じています。

 学生時代、鹿児島の田舎の男子校から出てきた私にとって、東京の空気はあまりにも刺激的で、ただただ己の好奇心のみで駆け抜けた事を思い出します。楽理科はそんな私の好奇心にとって、未知のジャングルのような魅力に溢れ、あらゆるジャンルの音楽へと導いてくれました。そして当時、同級生はもちろん先輩後輩を含めた音楽学部全員の名前を覚え、指揮をはじめ全ての楽器の副科を履修し、レッスン部屋に入り浸っていました。また当時図書館の受付のアルバイトをしていたので、仕事と称して書庫に自由に出入りし、あらゆる楽譜や録音、研究書・論文や貴重書籍を見つけてはひとり悦に入っていたのもいい思い出です。

 卒論の指導教官は土田英三郎先生でした。ご存知のように先生ご自身、研究職と並行して指揮活動を行っていました。肝心の論文指導よりも、数多くの含蓄に富んだオーケストラとのエピソードの方が記憶に残っているのは内緒です。その後、父の専門が教育学だった事もあり、大学院では音楽教育を選択しました。音楽教育ではピアノ科や声楽科など実技専攻も同時に選択する必要があります。それを楽理科ではなく指揮科で受験した事が、その後指揮者の道に進む大きなきっかけになりました。

 大学院を修了後、指揮を師事した小林研一郎先生とのご縁でハンガリーに留学、帰国後東京シティフィルの指揮研究員となりました。指揮者としての仕事を始める傍ら、コンクールに挑戦して国内外のプロのオーケストラと仕事をする機会を増やしていき現在に至ります。中でも落合陽一と日本フィルとの5年に渡るプロジェクト「__する音楽会」は、そんな私の好奇心の集大成とも言える刺激に満ちたものです。

 楽理科としては疑うべくもなくどうしようもない劣等生でした。しかし冒頭に述べたように、学生生活で出会った楽理科の同窓生とのご縁こそが、いまの私の指揮活動の財産であり、礎を形作ってくれています。尽きることのない好奇心と楽理科の「魂」を胸に、これからも指揮活動を続けていきたいと思います。

 


奇跡に携わる

小﨑 久美子

 修士修了前に、今も勤めているアフィニス文化財団(文末のQRコード参照)と巡り合いました。企業財団であり、プロオーケストラへの助成支援が主軸のため、学生や一般には見えにくい部分もあるかもしれませんが、日本オーケストラ連盟の設立に関わり、日本のオーケストラを支えて今年で34年になります。私はこの財団で企画制作に携わっています。

 事業の一つである「アフィニス夏の音楽祭」は、毎年8月下旬に開催される室内楽の音楽祭です。リハーサルに4日かけるなど通常よりも多くとり、「セミナー」と称してそれを最初から公開し、聴講を可能としています。海外の現役のオーケストラ奏者と、日本全国の熱意ある楽員の皆さんが参加され、藝大で同級生だった方と再会することも多いです。業務から離れ室内楽漬けの日々、いわば合宿状態になるので、長い音楽家人生で自分を見つめなおすきっかけになるという声もきかれます。

 音楽祭が音楽祭たる所以、それは単に連日演奏会を提供するだけでなく、地域の人々や国内外の演奏家同士が交流することで生まれる大小のきっかけ、発見があるところです。音楽祭での出会いがきっかけとなってアンサンブルを始めたり、留学したり、インターンで関わってくれた学生が音楽の仕事に就いたり。逆に、私は音楽の仕事に向いていないと気づいたと言ってくれた子もいます。

 もちろん、ご存知のとおり、観客として音楽を聴くこと自体、私たちはたくさんのものを受け取り、そして自分なりに消化し、身につけます。特別支援学校への出張コンサートでは、生徒さんが普段では考えられないくらい集中して聴いていたと、先生に驚かれたこともあります。創造性は社会包摂、ダイバーシティへと話は広がりますが、まずは体験が視野をひらくということ、経験しないと感動は得られない、自分の中でのスパークは生まれないということ。百聞は一見に如かず(聴いていないと書けないよ)とは、まさに楽理科の知るところです。

 さて、音楽祭は多様な人々と作り上げるものですから、効率の良くないことなど多々あります。しかしその“遊び”の部分がないと、多様な情報交換が十分に行きかわないおそれがあります。オンラインでの通信手段を得て私たちはとても便利になりましたが、対面したときに圧倒的に情報量が違うと痛感させられます。演奏家や音楽関係者にとって、コロナ禍はひととひととが直接出会うことの凄さを身に染みて実感する期間となりました。今でも、演奏会のために無事アーティストが来日し、終演を迎えることはひとつの奇跡です。

 当然これまでも各主催者は前向きに演奏会や音楽祭を準備してきた訳ですが、コロナ後に少しずつ活気が戻ってきた・・・どころの話ではないと私は思っています。演奏家や音楽関係者は、ますます、ひとつの奇跡を提供することに熱意、覚悟を込めています。毎日、その瞬間しか聴けない演奏がコンサートホールで展開されています。忙しいから、遠いから、子どものお迎えがあるからと、自分で限界を決めて演奏会に足を運ばなくなってはいないか。音楽は瞬間の芸術と語っている楽理科こそ、ライヴの演奏から、聴くことそのものから離れないようにしたい。卒業して10年以上も現場に携わっていながら、いまだにそう考えています。