第21号

卒業生からの寄稿

私の辿った道
――美学・百年史・アーカイブズ――

橋本 久美子

 「もう少しで野球チームができますね」。昭和48(1973)年度の新入生を見回しにこやかな服部幸三先生。50年前の話である。定員より3名多い18名中、男子7名は過去最多であった。過半数が教育研究に携わり、放送、出版、演奏の関係者もいる。担任は野村良雄先生が定年を控え、2年次より32歳の新任、舩山隆先生に交代した。

 導入されたばかりのガムラン実習もあった。ある日、現代音楽史の金子篤夫先生が「動物園に行きませんか」。パンダ舎前は長蛇の列であった。教務係の掲示板に休講の貼り紙が並び、掲示がなくても定刻を15分過ぎれば休講になる等々、デジタル化以前の学生生活であった。1年次で声楽や弦管の伴奏を始め、4年次には4名の卒演や院試に精を出し(過ぎ)た。美学の神保常彦先生のご指導により卒論は出したが研究計画が立たず、2年間足踏みした。だが、舩山先生の論文指導で修士修了した後も音楽学から離れずにきたのは、この2年間のおかげである。

 大学百年史の編纂に携わることになり、5号館4階にあった音楽研究センターで編集委員兼執筆の森節助手の補助に入った。5年計画と伺い、まさか「東京音楽学校篇第一巻」(1987)と「演奏会篇第一巻」(1990)で森助手が定年退職し、続刊を託されるとは考えもしなかった。『東京芸術大学百年史』全12巻中、音楽篇6巻(東京音楽学校篇2巻、演奏会篇3巻、音楽学部篇1巻)の完結まで22年を要した。音楽側委員に服部先生、大石清先生、山本文茂先生、舩山先生、角倉一朗先生、土田英三郎先生、佐野靖先生、大貫紀子助手がおられ、取材や寄稿では100名以上の先輩にお世話になった。

 編集委員の一人、テューバの大石先生は折々に思い出話をして下さった。昭和17(1942)年の入学式に「今年は男子を多くとった。防空要員である」と校長の訓示を受け、翌年、海軍入団となった。この「防空要員」の話を何度も伺ううちに、「野球チーム」の記憶が突如蘇ったのである。男子学生への期待や男子の役割意識など、両者に似たものを感じるのだが、実際、服部先生と大石先生は同学年にあたり、軍隊を経験し、文字通り戦後を生きておられたのである。今年は学徒出陣から80年目である。

 平成21(2009)年に学史編纂室(60)、現在の大学史史料室が2号館1階に開室した。東京音楽学校時代の公文書や寄贈資料等の保存利用を行うアーカイブズ施設である。スタッフ(時間給)も3〜4名に増え、平成30(2018)年には2号館書庫(31)と4号館書庫(17)が増設された。課題は尽きないが、百年史編纂を共同利用施設のキャビネット数本で行なった頃とは雲泥の差がある。

 戦後70年に東京音楽学校作曲部の戦没学生2名の楽譜が遺族より提供されたのを機に、学徒出陣の記録調査と情報収集を開始した。平成29(2017)年、確認された戦没学生4名の作品演奏会とシンポジウム「戦没学生のメッセージ」を開催。その後も調査と演奏会を継続し、音源や楽譜を「戦時音楽学生Webアーカイブズ〈声聴館〉」で公開している。

 令和2(2020)年度に国立公文書館認証アーキビストに認証された。音楽関係では一人目らしい。昨春の退職後は、音楽環境創造科の新入生にゲスト講師として藝大の歴史を案内し、学習院大学非常勤講師としてアーカイブズ学の基礎教養科目で音楽の事例を紹介している。藝大の法人文書の保存、藤山一郎音楽文化振興財団の活動をお手伝いしている。

 美学から百年史、そしてアーカイブズへ。楽理科での学びは、予想もしなかった場所へと私を導いてきた。

 


背中を押す側へ

クドウ 優奈(旧姓: 斎藤)

 2008年入学のクドウ優奈です。ドイツ在住、家族は日系アメリカ人の夫と猫一匹。オペラのKorrepetitorin (以下コレペティ) をしています。歌手の役の準備段階のコーチング、稽古中の伴奏や指揮や微調整、関係者同士の仲介役、公演での鍵盤楽器演奏などを担い、自分で言うのもなんですが、縁の下の力持ち。在学中、学業はそこそこに、山程の伴奏、裏方のお手伝い、飲み会と、毎日のように歌手達と過ごす中、自然な流れでこの職業を知りました。

 ここまで随分無茶もしてきたと、振り返って思います。迷走して字数のみ稼いだ代物を提出し、学部をなんとか4年で卒業させていただいた時点では、見通しも何もないフリーターでした。時間だけはあったので、知人を頼ってイタリアへ。そこで出会った芸術家達に惚れ込み、3ヶ月後に留学を開始しました。幸い、すぐに各地の劇場で仕事をする機会に恵まれ、夜行列車で学校に通いながらまたもやギリギリで卒業。スカラ座アカデミーで研修を受けた後はそのままコーチとして採用していただき、劇場や音楽祭にも弾きに行きつつ充実したイタリア生活を続けていたのですが、旅続きの生活への疲れと、給与の支払いが時に年単位で遅れることでの経済的困難、レパートリー拡大への意欲から、劇場システムが充実したドイツへの移住を決意しました。

 ドイツで最初に合格したのは、北西部の4つの中堅歌劇場が共同で新設した研修所。30歳で国を変え、また研修生となることに抵抗が無かったと言えば嘘になりますが、新しい環境への探究心の方が大きかったです。研修先の劇場の一つで専属に引き上げていただいた後、昨夏にはフランクフルト歌劇場に移籍し、素晴らしい歌手や指揮者達の元で経験を得ていましたが、この夏、ドイツ移住のきっかけとなった研修所に芸術監督・ヘッドコーチとして戻ることとなりました。若手歌手やコレペティの現場での研鑽とプロへの道をサポートする役目で、コーチとしての仕事に、4劇場の総監督達やそのチームの人々と研修生達の仲介役、オーガナイザーとしての要素が加わります。重圧は感じますが、裏方の更に裏方をするのは楽しみでもあります。

 想像も身の丈も遥かに超える機会に不安になることも多々ありましたが、独自の道を切り拓いていらっしゃる楽理科出身の方々や、広がる可能性を示してくださった方々に勇気をいただき、自分の心に従って決断をしてくることができました。また、稽古や楽屋口に押し掛けたり突然メールをしたりした小娘の面倒を見てくださった歌手、指揮者、コレペティ等様々な方々のご縁で今があります。私も誰かの背中を押す側へ成長していきたいと思います。

 


楽理科で出会った世界の音楽家たち

神野 知恵
(国立民族学博物館 特任助教/2016年度博士課程修了)

 私は2009年に音楽学修士課程の民族音楽ゼミに入学して以来、博士課程とゼロ室勤務、専門研究員としての所属期間を含め、計10年間楽理科にお世話になった。そのおかげあって、今もなんとか研究を続けられている。

 楽理科での何よりの想い出は、外国人留学生と過ごした濃厚な日々だ。統計は確認していないが、おそらく2010年前後に楽理科史上最も多くの留学生が(しかも多様な文化圏から)集まっていたのではないだろうか。当時は中国、韓国、内モンゴル、モンゴル、キルギス、ウイグル、ロシア、ネパール、バングラデシュ、ミャンマー、アメリカなどの出身の演奏家たちが在学していた。そのおかげで、私は各地の音楽の真髄にふれることができた。なかには、自国の情勢や家族の状況が不安定な人もいたが、いつも明るく前向きで、自身の音楽文化について語るときは熱が入った。演奏家である以前に、人生の先輩でもあった。

 ゼミの後は、よくキャッスルで昼食を食べ、学期の終わりには民族料理店で打ち上げをした。中央アジア勢は、決まって故郷の羊肉がいかに美味しいかという話に熱弁をふるい、宗教的背景のある人は、日本での生活でいかに自国の食文化の規範を守るか(いかに守れない/守らないか)という話で盛り上がった。また、彼らが学内外で公演や特別講義を頼まれるたび、私はその手伝いを買って出た。彼らの奏でる音楽と人柄に魅力を感じていたのだ。楽屋で一緒に過ごしたりカメラを回したりしているうちに、気づけばそちらがメインの活動になって、博士研究が全然進まなかった(もちろん、それは言い訳に過ぎない)。

 2011年の東日本大震災の直後は、私自身も狼狽していたので留学生の方々への気遣いをほとんどできなかったが、自宅が断水・停電になっていないかと聞くと「私たちは大丈夫です、いつもそうやって育ってきたから」と明るく笑って、逆にこちらの安否を尋ねてくださった。その言葉には繕ったところが全くなく、生きる強さを感じさせられた。同年5月には被災地応援企画として、3331アーツ千代田(2023年3月閉館)で、ミャンマー音楽のチャリティー公演も開催した。そのときの収入は、地元支援団体を通じて岩手県上閉伊郡大槌町の虎舞団体に届けられ、笛の購入費用となった。チャリティーの意図ももちろん大事だが、不安定な時期に、異文化を背景に持つ人たちと一つの企画をやり通したことに大きな意味があったと思う。そのほかにも数えきれないほどたくさんの経験を共にした。

 あれから10年以上が過ぎた。それぞれ帰国したり、別の国に渡ったり、日本に定着した人もいる。コロナ禍を経て、ここのところ楽理科卒業生との再会が続いている。いつかまたどこかで一緒に公演をやりたいとも話している。持つべきものは弁護士、医者、銀行家の友人…などという言葉もあるが、私は国籍に限らず、「芸術活動を続けている友人」が何よりの宝であり、人生の幸福の種になると信じている。生きている限り、その宝を絶対に手放さないつもりだ。