第21号

楽理科クロニクル

 

小泉ゼミの10年間

片桐 功

 私は芸大楽理科では10年間小泉文夫先生の民族音楽ゼミナール(通称小泉ゼミ)でお世話になりました。このゼミは単位のもらえる授業でもあり、芸大のクラブでもあり、実に様々な人々が出入りしていました。水曜日の17時以降の夜に行われ、帰るころには大学の玄関が閉まって用務員室から出た記憶もあります。私は小泉先生がわらべうたを研究されていることを楽理科受験前から知っていて、ぜひ習いたいと思い参加しましたが、私が小泉ゼミに参加した頃はわらべうた研究が終わって、沖縄民謡研究に変わっていました。ゼミに顔を出してみると小島美子、印牧由規子、草野妙子、小柴はるみの諸先生方、そして助手とか非常勤助手とか副手とかをされていた大貫紀子、石原笙子、月恒子、樋口昭、入江宣子さんたち、それにまだ学生だった櫻井哲男、小林幸男、金子静江さんらがおり、後には楽理科の後輩たちやら楽理科以外の芸大生やら他大学の学生も参加するようになり、和気あいあいとしていました。そこでは沖縄民謡の厳密な採譜に取り組んでおり、私の採譜した八重山民謡のトバラーマの音源をオープンテープを回しながら、何週間もかけてみんなでワイワイ言いながら点検したのが懐かしい思い出です。

 学部4年生の冬、小泉ゼミでは沖縄へ民謡調査に出かけようという話が持ち上がり、沖縄本島の国頭調査のグループと宮古島調査のグループに分かれて、船で沖縄を目指しました。途中台風に遭って大揺れの中、なんとか那覇港に上陸し、そこから二手に分かれました。私は宮古島班となり、宮古民謡の調査を開始しましたが、なにせ民謡調査は初めてだったので、先輩方の後ろをついて回っていたように思います。旅館では小泉先生と同室となり、おそらく相当緊張していたのでしょう。朝起きてみると熱に浮かされすっかり風邪をひいてしまい、あわてて病院に行ってお尻に注射を打ちました。痛い注射で、お尻の注射は2度とごめんだと思いました。皆には笑われる始末で、フィールドワークのほろ苦いデビューでした。その後修士課程に入って1年生の冬にも八重山民謡の調査があり、私は西表島担当に回りました。

 修士課程ではいまだに私の脳裏を離れない思い出があります。修論のテーマを古代ギリシア音楽理論研究にしたいと小泉先生に打ち明けたところ、先生はあきれ返って、「文献研究は大変だよ。自分も東大美学科時代に少し行きかかったが断念した。時間のもの凄くかかる分野だよ。食べるものも着るものもなくなって、上野公園のベンチにごろんと寝ころぶような状態にまでなったら助けてやるよ。」と仰ったのです。まさかそんなことはあるまいとギリシア語を一から習って、アリストクセノスの『ハルモニア基礎論』に挑みましたが、読破するのにすっかり時間がかかり、修士課程は1年延ばして3年で修了することになりました。修了間近になって偶然にも博士後期課程が開設されましたが、入学試験は確か4月に入ってからで、入学式も遅く、合格した5名(音楽学2名、声楽1名、生田流箏曲1名、管楽器1名)だけの入学式でした。試験は小論文(研究計画)と面接だけで、語学はなかったと思います。

 博士後期課程に進学してみると、同級生は海外に行ったり、非常勤助手になったり、就職して、たった一人に取り残された気分がしました。ですからプトレマイオスの難解な『ハルモニア論』を読んだり、学会発表をしたり、学術論文の投稿を孤独に進めていました。博士後期課程の授業はほとんど修士課程の授業と合同であり、博士後期課程単独の授業は何もなかったと思います。ただ私はその頃専任教授に着任してきた横道萬里雄先生のいくつかの授業に顔を出して刺激をうけた記憶があります。「ヤァ、ハァ、ヨーイ」の能の囃子事の実技はとても面白く、楽書講読の日本語は初めて学んだ変体仮名の授業で四苦八苦しましたし、日本音楽史Ⅰ(古代・中世)は豊富な資料を駆使しながらの講義で、横道先生の学識の高さにはすっかり魅了されました。

 それ以外では引き続き小泉ゼミに所属し、沖縄民謡の調査に再び八重山に行きました。その頃には私もすっかり先輩面をして若い後輩たちを引き連れ、西表島を回りました。小泉ゼミは私の孤独を癒してくれる憩いの場でもあったのです。民謡調査で採集した音源は合宿しながらみんなで採譜・校閲し、テトラコード理論による音階分析を施しましたが、時々分析しづらい例に出会うと小泉先生に持ち込んで、指示を仰ぎました。最終的には『沖縄民謡採譜集』の宮古編と八重山編を教務課の印刷機を借りて手作りで編集したことが懐かしい思い出です。

 博士後期課程の3年生の修了時に縁あって地方に行くことになったのですが、上野公園のベンチ行きにならず何とか就職できたのは幸いだったかなと思うことしきりです。