第17号

卒業生より

好奇心を失うことへの恐れ

川口成彦

 年齢もついに30歳となり、最近ピアノが大好きな中学生や高校生から「ピアニストになりたいのですが…」と将来について相談を受けることが増えてきました。そして私は彼らがまず考えることになる「大学受験」において、藝大の楽理科を選択肢としていつも挙げています。ピアノを弾く際にピアノしか知らないことは音楽家として大きな欠陥を持つことになりうると最近つくづく感じるからです。オランダでの生活を4年前に始めてから、私は様々な音楽家と出会いました。その中でも最も尊敬する人物の一人にアレクセイ・リュビモフ氏がいます。彼が日本にやってきた時に一日東京散策に付き添いましたが、彼が東京で切望したことは中古レコードショップ巡り、しかもワールドミュージック専門の店を訪れることでした。仏教音楽へのはちきれんばかりの好奇心を抱きながら、新宿のとあるお店でレコードをかき漁るリュビモフ氏はまるで少年のようでした。彼に限らず、偉大な音楽家であればあるほど、この地球に溢れる音への執着が物凄いと最近感じています。
 楽理科での経験は今でも財産となっています。今の自分にとって大切な古楽器への興味は楽理科にいなければまず持つことはなかったでしょう。また、日が昇る前に聴いた声明のサウンド、ガムランの体験、毎週知らない世界を見せてくれた民族音楽の講義などは20代前半の僕にとってかなり刺激的でした。西洋音楽に関しても楽理科にいたからこそ知ることの出来たことが山のようにあります。「音楽について考察する」ということを広く学ばせて下さり、音楽に携わる人間としての基礎的なベースを作って下さったと強く感じています。このベースにどれだけの音楽的教養を上乗せ出来るかは自分次第ですが、年を重ねても好奇心が衰えない音楽欲に溢れた人間を見ると、自分に自信を無くすことがよくあります。しかし楽理科にいなかったら私はこの「ベース」ですら手に入れることはなかったでしょう…。私は楽理科卒業後、音楽的な好奇心が主に「歴史的鍵盤楽器を通じた西洋音楽」に集中していました。そして30歳になった今心にあるのは、音楽に対する幅広い好奇心を失いつつある自分を恥ねばという危機感です。己の専門分野に特化しすぎると見失うことは沢山あります。楽理科という音楽的好奇心に溢れた環境への郷愁がたまにあります。心が年を取らないようにしなければなりません。
 最近の私は昨年受賞したとあるコンクールを機に、ショパンにピリオド楽器で取り組むことに専ら集中しています。今は自分の人生の中でショパンの音楽に集中的に向き合うべき時期だと思っています。一方で自分にとって最も重要なものは楽理科時代から(遡れば高校生から)執着しているスペイン音楽であるだろうとも思っています。18世紀から19世紀初頭の知られざるスペイン鍵盤音楽を世に広めたいという夢がありますが、それは私のオリジナリティにも繋がっています。自分の個性を見失った演奏家にならないようにこれからも頑張りたいと思います。


世界に耳を澄ますこと―マーラー研究から学んだポリフォニー

高坂葉月

 私は大学・大学院でマーラーの交響曲を研究対象とし、オーストリアに3年留学をしたのちに、博士号をとりました。博士号取得後、私が就職したのは九州大学大学院芸術工学研究院。そこでは、マーラーの音楽研究ではなく、現代アートやアートをマネジメントする人材の育成に携わることになりました。全国で盛んに行われるようになったアートプロジェクトや海外でのクリエイティブな事例を研究したり、アーティストや地域の人たちと協働しながら新しいアート作品を創造したりする、そんな仕事です。
 学生時代の私の研究を知る人には、卒業後の職がそれとはかなり離れているのでたいてい驚かれます。でも実は、私の中では強いつながりを持っていて、マーラー研究の展開型だと常々思っています。マーラーが音楽においてしようとしたことは、世界に存在する(それはこの世にとどまらない)多様なものたちを同時に音楽の中に安らわせる試みだと理解しています。すなわち、ポリフォニーの創造です。今、私が関心を持って従事していることも同じ。現代に存在する多様な人、物、見えないものたちへの想像力を持って、アートでなければ生じ得ない調和を生み出すことなのです。
 マーラー研究の時は、色々考えたり感じたりしても、今を生きる自分と過去の作曲家の間には拭い去れない隔たりがあり、マーラーに尋ねるわけにもいかないし、自己解釈の域を出ない一方的な会話を繰り広げている点に(自分の力不足ももちろん承知です)辟易することもありました。でも今は、生きている人たちとやり取りし、それがリアルな創造に結びつくことに楽しさを感じています。
 九州に来て、楽理科の先輩や後輩とのおもわぬ再会や出会いもたくさんありました。大学では音楽学の直属の先輩、西田紘子さんに相変わらず仲良くしていただき、ともに地域の音楽文化について考えを巡らせることもありました。大先輩の中村美亜先生とは4年ほど同じラボに所属し、鍛えていただきました。多様なことへ関心を開いていけたのは、美亜先生との共同研究や実践も影響していると思います。また、大学の外にも楽理ネットワークが広がっており、いつも助けられました。楽理科同期の柴田真希さんは黒川能研究者ですが、今は福岡市の文化財課で専門職員としても働いており、地域の価値を掘り起こすアートプロジェクトを企画運営する際には心強かったです。そして企画を市民に届けようと取材を申し込めば、NHK福岡支局には後輩の林田理沙さんがいました。このように、縦横斜め、多様な分野で活躍する楽理科卒業生たちと協働しながら、ポリフォニーの創造に関わってこられたと思います。
 新しいものを生み出すときには、必ず不協和音もあります。でも、きれいなものだけを作ろうとしても、それは真実ではない。マーラーの音楽研究を通して学んだこと、つまり世の中にはいろんな音がしていること、それらが共存することの意味と価値を考えながら、これからも活動を続けていきたいと思っています。