第16号

卒業生より

森君 追悼

金子建志

 3月26日、森泰彦さんが、准教授としての勤務先だった倉敷で、喉の炎症から呼吸困難に陥ったとの一報。搬送先の病院でICUに入ったというので、遠方の我々にとっては、なす術も虚し。意識が戻らないまま、4月10日0時13分、息を引きとったとのこと。
 1955年生れで、芸大への入学は1973年。私は卒業後、母校から離れてしまったため、普通なら7年後輩の森君との接点は少ないはず。ところが、楽理科には夏休みに、卒業生も参加して語り合う「合宿」という行事があります。泊り込んで遊び、飲み、音楽談義を交わす時間は貴重で、森君は学部一年時から皆勤。私も、ほぼ参加していたため、同年代の学友であるかのような交流を深めていきました。
 英国育ちでバイリンガルだったせいもあり、インバル等の通訳やプログラム執筆で、分裂から再建へと困難な道を歩んだ時代の日本フィルに深く関わり、定期の後、支援仲間と座を囲むのが定例化していました。私も居合わせることが多かったのですが、歯に衣着せぬ音楽論が飛び交う熱した場になるのが常で、生半可な知識から軽口を叩こうものなら「違いますよ、金子さん!」と突っ込んでくる。幾度となく鋭い直球を投げ返された時の光景が蘇ってきます。
 デスクワークに籠もりがちな音楽学者のイメージとは正反対。膨れ上がった鞄の中に当日演奏される曲のスコアが全て入っており、それを根拠に指摘してくるわけです。コンサートを聴いた日時から細部の異同までメモ書きされた楽譜は、演奏史の資料としても貴重。しかも、それに加えて研究文献(殆どが厚い洋書)まで、持ち歩いているのが凄いところでした。
 音楽と音楽家を、作品研究的な角度からだけではなく、社会的な視座から鋭く検証するのが森流。著書『モーツァルトの世界』は“作曲家の生涯を悲劇的な物語に仕立てる”という音楽界の風潮によって「貧困死」説が作られていった、という視点から書かれています。絶筆となった『ワーグナーシュンポシオン・2017』の「ワーグナーとブラームス」では、一般的には対立的に論じられる両巨頭の深層を、緻密な資料研究によって解き明かしていく渾身の推理。今度、会ったら、それについて賛辞を贈ろうと思っていた矢先の訃報でした┄。
 調べてみたところ、近くの浜からの夕陽をアップした3月19日の私のフェイスブックに、最後の「いいね」が付けられていました。彼のページは更新されないままです。パスワードを告げる間も無かったため、年代記的に纏められた証言としての「合宿史」も含めて、膨大な研究の全ては、彼のパソコンの中で生き続けています。
 マーラーのリュッケルト歌曲集の Ich bin der Welt gekommen をどう訳すか、になぞらえるなら「私は、この世から姿を消した」になるのでしょうが、私達は皆〈亡き子を偲ぶ歌〉の第4曲と同じで「君は、ちょっと出かけただけ」と思っている。教室に行けば、教壇から声が聞こえてくるし、何よりも、君が生涯をかけていた音楽は、ずっと鳴り続けているのだから。


音楽学専攻への道のり、それから

星野厚子

 私は藝大に、邦楽科長唄専攻で入学しました。母が長唄三味線演奏家だったので、自然と邦楽科を受験し、将来は長唄の演奏家になると思っていました。入学から19年目となった今年、私は東京大学文書館(ぶんしょかん)で、学術支援職員として働いています。
 私の藝大入学は2000年4月です。《英執着獅子(はなぶさしゅうぢゃくのしし)》や《汐汲》など、長唄の古典曲目のほか、《橡の木》、《獅子団乱旋》といった、邦楽科ならではの曲目もお習いしました。学部2年の時、楽理科の友人に誘われて受講した配川美加先生の「邦楽概論」の授業で、私の人生は変わりました。その授業は、三味線音楽を深いところまで掘り下げた内容で、知らないことばかりに衝撃を受けたのです。演奏だけでは長唄の面白さを十分に味わえないことを知り、進学は楽理科の大学院を次第に意識するようになりました。大学院入試では、語学など越えなければならない山が多々あり、合格後も初めての論文執筆やゼミ発表に苦戦の連続。指導教員の塚原康子先生や、ゼミの先輩方にどれほどお世話になったかわかりません。
 修了後は、東京文化財研究所無形文化遺産部に研究補佐員として採用していただきました。無形文化遺産とは、古典芸能、民俗芸能、工芸技術など、多岐にわたります。私の業務は、それらを扱った視聴覚資料の目録化だったので、専門に関係なく視聴覚資料をチェックしていました。また、業務終了後に高桑いづみ先生や部のスタッフで開催した、能を摂取した長唄作品を検討する研究会に参加したことが、結果として現在の研究に繋がっています。幸運なことに、私の所属する「長唄日吉会(ひよしかい)」の家元日吉小三八師が、長唄研究の基本資料である長唄正本(江戸時代の版本)を多数所蔵しておられ、研究に対しても深いご理解があったことにより、演奏と研究の両立が叶いました。
 2013年、藝大大学史史料室(音楽)の教育研究助手のお話をいただきました。大学アーカイブズについては素人でしたが、史資料に囲まれた環境で仕事できることが嬉しく、橋本久美子先生のもとで史料整理を行いました。橋本先生には、『東京音楽学校一覧』の見方からレファレンス対応など、現在の業務にも通じる基礎を教えていただいたことに感謝しております。
 今年5月に採用していただいた東京大学文書館は、「国立公文書館等」の指定を受けた施設で、資料管理に関する専門的な知識が常に求められます。赤門はなぜ赤いのか、医学部の建物はいつ建てられたのか等、押さえておくべき基本事項も沢山あります。自身の大学のことを調べるために、在学生が資料閲覧に来ることが嬉しい日々です。現在私は、当初予想していた将来像とは少し異なった道を歩んでいますが、全てにおいて、よき指導者にめぐり会えたこと、そして私に内在する好奇心のアンテナが反応した結果、と分析しています。刺激ある毎日、前向きに業務を遂行したいと思います。