第20号

楽理科クロニクル

 

楽理科落ちこぼれ

小林 道夫

 私が楽理科に入ったのは1952年、戦争が終わって6年が過ぎてはいたが、今と較べるとはるかに物の無い時代で、上野の駅を降りてすぐは、しばらくの間両側は焼トタンを寄せ集めた小屋が並ぶ殺風景なもので、学校帰りには、薄暗くなっていたりすると、所在無げにそれぞれの小屋の前にすわり込んでいる人達の前を歩くのは一寸勇気を必要とした。

 中学1年の時に終戦となり、好きだったピアノを習いはじめ、高2まではただ楽しみで続け、部活の音楽班では伴奏を受け持って、オペラの1場面とか、ハイドンの《天地創造》の1部分とかも弾いて、その楽しさにはまり込んではいたが、専門として音楽の方に進むとは考えたことはなかった。進路を選ばなければならない時がきて、他に何も見付けられないまゝやはり芸大かということになり、永井進先生にご相談したところ楽理科をおすすめ下さった。永井先生のご紹介で平井康三郎(当時保喜)先生に楽典など受験準備をみていただいて、無事入学することができたが、割り当てられた音楽理論専攻は、担当なさる筈の先生がもう一人の先生との意見が合わず辞任されたとかで担当教官が決まらず、何となくあまり忙しくなく、ゆるやかな大学生活のはじまりとなったのは有難かった。たまたま、畑中教室のテノールの新入生の伴奏をすることになったのをきっかけに、一級上だった立川澄人さん他の上級生達、畑中良輔先生はじめ何人かの先生達の伴奏もさせていただく機会も増えてきて、だんだんと私は楽理科を落ちこぼれ、楽理科ピアノ伴奏専攻になってしまった。

 楽理科の授業としては、服部幸三先生の楽書講読でウィリー・アペルの『ピアノ音楽史』を読んだのが印象に強く残った。本それ自体が普通身近にある本と違って、紙質やインクの匂いも外国の文化!という感じがした。これがきっかけで、最近まで洋書を買い込む癖がついていた。美学は大きな教室で他の科の学生と一緒のが土田貞夫先生。最前列にいつもピアノ科の柳川守君が居て、この難しい話よくわかるものだなと感心するばかりだったのをよく憶えている。もっと小さな教室だったのではないかと思うが、神保常彦先生の美学の講義は更に難しく、2つの言葉だけ面白かったので今でも思い出す。1つは「無目的的目的」、もう1つは「美的態度の静観性」、その説明が「あっ火事だ。きれいだな!」このお二方の授業は、今だったら是非お聴きしたいと思う。

 辻荘一先生の音楽史の授業は書取りの時間だった。当時日本語で書かれた音楽史の本が殆ど無かったということなのだろう。当時、我々はこの授業を「辻音楽師(史)」と呼んだ。

 卒業間際に、私にとっての大事件が2つ。1つ目は卒論。当時卒論はAとBがあり、たしかAは12単位、Bは2単位ではなかったかと思う。卒論の個人指導は無かったと思うが、私が知らなかっただけかも知れない。教師になる積りの全く無かった私は、教職教養科目を全く取っていなかったので、論文はAでなければ卒業できなかった。私の書いたものは、弦楽四重奏曲のアナリーゼの報告書のようなもので、我乍ら出来の良いものとは思えなかったが、担当してくださった大宮真琴先生を脅迫して、Aでなければ卒業できませんと言った。先生の「困ったな、困ったな!」と何度も言われた声は今でも思い出すことができる。

 もう一つは体操。あの頃は校舎の裏手にキャッスルがあり、その裏にちょっと空き地があって、ぶら下がってやるシーソーのような仕掛、その他いくつかの道具があり、そこで適当に遊んでいて下さい。頃を見はからって出席カードを配りに行きます。というものだったので、これならいつでも良いやと思っていて、気が付いたら卒業まで毎日やっても回数が足りないということになっていた。

 同じことになった学生がけっこう大勢あったようで、学校側が救済策を考えてくれた。

 野口三千三先生の舞踊と体操という授業に出れば回数を倍に数えるというもので、おかげで卒業出来たのだが、これが後々迄どれ程役に立ったことか知れない。野口先生の体操は、自分の体の動きを意識して、不必要な力を絶対に使わないというもので、皆はコンニャク体操と言っていた。余計な筋肉の緊張があると、出来ることが出来なくなる。出来ないのではなく、出来なくさせているということに気が付くようにさせてくれる授業で、この恩恵は計り知れない。楽理とは無関係かも知れないが、芸大生活の最後の最後にコンニャク体操を知ったのは、とてもとても大きなことだった。

 


Expo‘70と小泉文夫先生のこと

小柴 はるみ

 来る2025年に再び大阪で万博博覧会が開催予定であるが、アジアで初めての万博が開かれたのは、今から52年前の吹田市千里丘陵であった。当時は経済成長の最中で、それは‘未来に夢や希望が持てた良き時代の最大の祭りごと’であったし、現在でも万博公園にお祭り広場の名残である「太陽の塔」がその姿をとどめている。その広場の様々なイヴェントの中で、万博協会から小泉文夫先生が構成・制作を委嘱された「アフリカの民族舞踊」(6/9~6/15、19時~21時)と「アジアのまつり」(8/12~8/18、19時~21時)は、小泉ゼミ(藝大民俗ゼミナール、後に民族ゼミナールに改称、通称民ゼミ)の有志とともに参加した思いで深い出来事である。

 1969年に、民ゼミが足かけ8年をかけた『わらべうたの研究(楽譜編・研究編)』が出版された。これは日本伝統音楽研究のいわゆる「小泉理論」(テトラコルドによる音階論)の続きのようなもので、東京都の100の小学校で子供の遊び歌を調査・録音し、それらを採譜して考察し、日本人の無意識の中にある音感覚を探るものであった。一見お堅い学術調査研究のようだが、実際は先生の「仕事と遊びのけじめをつけない」というモットーのとおり、遊びの中で学び、学びの中で遊ぶという、楽しいフィールドワークと共同研究の大切さを学ぶ場であった。こうした楽しむことの延長線上に、大規模な遊びと学びの場である万博があった。

 1970年当時は、世の中に諸民族の音楽文化に関する情報はそれほど多くなく、ましてやそれらの音楽を直に体験できる機会は非常に限られていた。万博会場内でアフリカやアジア諸国の舞踊団への連絡・担当者が、民ゼミの弟子たちに割り当てられ、祭りの最中は刺激的な毎日を過ごしたことを思いだす。アジア9カ国(最終日以外は毎夕6カ国)が参加した「アジアのまつり」は、総出演者300人を超える多様性に満ちた華やかなものであった。先生の意図は、日本の縁日や祭礼のように、目の前に次々に出店や屋台や山車が現れるように、広場でアジアの芸能がスポットライトにつれて次々に移り変わってゆくというものであったが、私には8月の猛暑と万博会場の混雑の思い出が強烈に残る。それに比べ6月の「アフリカの民族舞踊」の公演は本当に印象深いものであった。

 それは、参加を表明したアフリカ諸国の中から舞踊団を派遣した4カ国(ウガンダ=担当;小柴、タンザニア=担当;石原笙子、ナイジェリア=担当;月渓恒子、マダガスカル=担当;草野妙子)に、日本の八丈島太鼓囃子やジャズ・シンガーの水島早苗氏(司会)とジャズ・バンドが加わっての公演だった。プログラムは5部構成で、第1部のプロローグ(アフリカの人と自然)から、最後に観客も出演者と一緒に、広場一杯に輪を作り踊りながら練り歩くフィナーレまで、思い切りアフリカの息吹を堪能する場であった。

 今でも記憶に残る幾つかのエピソードを記すと、各国から2名の太鼓奏者が舞台に出て、動物や鳥の声とともにアフリカのイメージを展開する場面で始まるのだが、鳥の大群の羽音が広場をめぐるように表現したいという小泉先生の意図を汲んで、音響担当の白砂昭一氏(藝大)が羽音つくり(結局、新聞紙を丸める音を増幅)から、天井のどのスピーカーを順に鳴らすか非常に苦労なさっていたことを思い出す。結果は実にうまくいった。ウガンダの強烈なリズムに乗った少年少女の踊り、タンザニアの3m以上ある竹馬乗り(コンクリートの床で苦労)や生きた大蛇の登場する曲芸、マダガスカルの親しみ深い音楽など多彩な伝統芸能が場をもりあげ、またアフリカの太鼓と日本の八丈島太鼓との打ち合いや、アフリカの奏者が八丈太鼓を打つなど、人間同士の共感と交流を含めて心躍る場面が沢山あった。当然小泉先生自身も大いに楽しまれたと思う。翌年アフリカ音楽調査に出向かれた。

 1983年に56歳で急逝されるまで、先生は調査研究や教育、そして啓発に多忙な日々を過ごされたが、その人となりや活動については弟子の岡田真紀著『世界を聞いた男 小泉文夫と民族音楽』(平凡社1995)に詳しい。また、先生が収集された楽器をはじめ書籍、レコード、テープ、写真、調査ノートなど多くの資料を小泉三枝子夫人が藝大に寄贈され、音楽学部内の小泉文夫記念資料室(https://www.geidai.ac.jp/labs/koizumi)にはそれらの資料が保存・整理・研究され、公開されている。ちなみにこの文章を書くにあたって当時の台本など資料の件で、同資料室の松村智郁子さんに大変お世話になった。