卒業生より
音楽と付き合って
マキシム・クリコフ MAXIM KLYKOV
私は運命と前世を信じています。生まれ変わる前に何が起こったかまだ思い出していませんが、今の私の人生の第一の課題は、音楽と付き合って仲良くすることであると強く感じています。思うことではなく、感じることです。
私は東京藝大で10年間を過ごしました。その間に自分の中で少なくとも二つの革命が発生しました。第一革命は、私は音楽を頭(左脳だけ?)で聞いたり分析したりはしますが、右脳を通して、音楽を心身で感じることがほとんどできない、ということがある時はっきり分かったことです。それを意識した瞬間、大きなショックでした!7歳から音楽と付き合い始めたのに…。
しかしその数年後、第二革命が起こりました。音楽を心と体で直接感じる能力が著しく上がってきたことを意識した瞬間に、また強いショック、いや、大きな喜びを感じました。
私はロシア民族楽器科を卒業しましたが、尺八の音に導かれ、藝大の研究生として2004年来日しました。当初、ショートパンツに草鞋、バンダナ姿で、藝大の楽理科に通い、鈴木メソードに関する資料を収集しました。気がつくと修士課程に進んでいて、尺八、箏、三味線を習いながら、学校教育における和楽器活用の可能性を調べていました。博士課程では、西洋音楽を否定して、完全に尺八の世界に浸り、音楽的伝統の構造を冷静に分析していました。そして、藝大にいた最後の3年間、音楽研究センターで今度は西洋音楽に関連する仕事をしました。とても新鮮な耳でバッハを聞き、心身が振動して大きな喜びを感じました…。
現在、私は個人事業主になり、ロシア民族楽器を指導しながら、バラライカ奏者と、ロシア民族音楽&舞踊アンサンブルGARMOSHKAのメンバーとして、日本国内で演奏活動を行っています。他のジャンルのミュージシャンともコラボをしています。
学生の時、ロシアのペテルブルグでは、有名なオーケストラのリハーサルをよく観察しましたが、ほとんど何も感じませんでした。今は尺八の一音を聞いても(良い演奏の場合)心身が振動しています。どこの国の音楽にしろ、どんなジャンルにしろ、聞いた音に響きがあれば、心も体もそれに応えます。自分の演奏の時も同じです。自らの弾いている曲に響きとテンションを感じると、なぜか聞いている人もそれに反応してくれます。簡単に言えば、私は日本でロシア民族音楽を演奏しますが、実際その中に色々なジャンルが入っていて、ロシア民謡の編曲にも意図的に引用や現代的工夫を挿入しています。
7歳から音楽を始めた私は、東京藝大の楽理科で30代を迎えて、ある時から音楽を感じるようになり、音楽がやっと好きになりました。上手にピアノを弾きながら、自分が作っていく音を楽しんでいる小さな子供の姿が、なぜかよく思い浮かびます。しかし、本当に音楽と仲良くすることが、今の私の人生の課題ならば、30代も40代も遅いどころか、むしろかなり早く進んでいると感じています。
新会員からの寄稿
ピアノ調律の世界から楽理科へ
高 友康(学部1年)
この4月にようやく芸大に入ることができてホッとしている。ようやくというのは、今回が3度めの受験だったからだ。私は高校を卒業してからチェンバロ製造とピアノ調律の修業をして、ピアノ販売店で調律師として半年ほど働いていた。楽理科を受験しようと決めたのはちょうどその頃だった。理由はシンプルで、漠然とだが「音楽がやりたかった」からだ。もっともその時点では楽典も和声もソルフェージュもゼロからのスタートだったので、なかなか苦労も多かった。受験中に根気強く勉強を見て頂いた先生がたには感謝してもし切れない。
入学して最初の一ヶ月はとにかく色々な科の面白そうな学生に積極的に声をかけた。受験勉強の期間が長かったせいか、初対面の人への声のかけ方をすっかり忘れていてほとほと困った。そして芸大に入ってくる学生はどの学生もひと癖もふた癖もあり、素晴らしいことにそれぞれが自分の音楽の世界をしっかりと持っていることに感激した!特に楽理科の学生は一人ひとりの音楽の趣味が全く違っていた点が面白かった。入学するまではてっきり楽理科の人たちは学者タイプのクラシック愛好家のような人ばかりかと思っていたが、実際は演奏するのが好きな人も多く、音楽の好みもルネッサンス音楽からジャズや邦楽、吹奏楽などなど。みんな自分の好きな音楽のジャンルには熱意を持っているので、そういった人と話すことは自分の知らなかった音楽の世界を広げてくれるし、なによりとても面白いものである!
私はサークルなどには所属していないため他の科の友人を作る機会がなかなかないのだが、幸運なことに作曲科の学生数人とは非常に親しくなった。私の家は大学から自転車で10分ほどの非常に近い距離なので、毎週私の家に集まっては何かしら音楽で遊んでいる。音楽鑑賞や連弾をすることが多いが、和声・対位法やピアノの調律方法などをお互いに教えあうこともある。先日授業で古典調律について勉強した週には、私が自宅のピアノをミーントーン音律に調律し、当時の曲を一緒に弾くことでその響きと現代の平均律との響きの違いを改めて実感した。古典調律を使った作品の創作意欲も駆り立てられたそうだ。
私が楽理科に興味を持ったのは楽理科出身の母の影響による所が大きい。当時は野村良雄先生や、小泉文夫先生、服部幸三先生、角倉一朗先生が教鞭を執っていらした時代だった。子供のころから芸大の色々なエピソードを聞いて育ったため、今自分が楽理科のいち学生でいることが不思議であり面白く感じる。
さて、芸大の音楽学部は紛れもなく音楽を専門に活動している人たちの場だ。ピアノの調律は音楽に関連した仕事ではあるが、やはり音楽とは距離があると感じていた。調律の仕事をするに連れて、音楽文化の中に飛び込みたい気持ちが強くなっていた私としては、絶えず音楽のことを考えなければいけないこの毎日が楽しくて仕方がない。物理学者だった私の祖父が生前こう言っていた。「物理学でも音楽でも、大事なのは『狂熱』を持ってそれに臨むことだ。」私も音楽に対する狂熱を持ちつつ芸大ならではの大学生活を最大限楽しみたいと思う。
音楽学の扉を開いて
坂東 愛子(修士1年)
にぎやかな上野公園をいそいそと横断し、藝大の門をくぐる日々がもう3ヶ月経とうとしている。念願であった音楽学の世界に、周囲の方々に支えて頂きながらなんとか一歩を踏み出せたことは、本当に有難いことである。
他大学でピアノを学んでいた私がお能の魅力と出会い、今まで体験したことのない日本音楽の不思議さや疑問を追いかけて来たのがきっかけである。重くうねりのある謡や流動的なカケ声、静寂な間など、日本人が生み出した能の音楽に自然の風景を眺めているような懐かしい感覚を覚え、その音楽表現の面白さや奥深い感性にとても衝撃を受けた。そして能の音楽表現を日本人としてなんとか理解できるようになりたいという思いで卒業後は、戸惑うことなく藝大邦楽科(能楽)に飛び込んだのである。毎日のシテ方の謡・舞などの実技や四拍子のお稽古で大きな壁となったのは、やはり能の音楽であった。西洋音楽に慣れ親しんだ私の耳には、謡やお囃子の音楽が知らない外国語のようで大きな違和感となった。「今までの自分の音感をまずは捨てよう」と心で唱えながら、お稽古に挑んだことを強く記憶している。そこでは必死に謡や囃子の音を捉えようすればするほど、思いもよらない音の動きに理屈では追いつかない旋律やリズムの基準が隠されていることを痛感させられた。「こんな複雑な音楽を指揮者やリハーサルを重ねずになぜ出来るのだろう」、ますます疑問は大きくなるばかりであった。
その後は、実際に演能を支える活動の場での修業として玄人稽古や楽屋働き、申合せなど、少しずつ経験させて頂いているが、そういった活動の中で「伝統」について私自身の価値観がすこし変化してきたように思われる。これまで古典芸能という「伝統」に対して、揺るぎのない方針や方法を維持するというイメージを抱いていた。しかし修業という環境を通じて、伝承されるものを丁寧に解釈して、技法やその精神性を最大限に生かしていく作業自体が「伝統」といえるのではないかと感じるようになった。
新たな大学院での学生生活では、音楽学の幅広いジャンルから様々な思考の方法が飛び出してくるようで、毎日が発見と学びの連続である。そのなかで私の経験した能の音楽への疑問や「伝統」に対して、どのように向き合っていくべきなのか、試行錯誤をしている。音楽学を懸け橋に現代から未来へと伝えていくことで、日本人のアイデンティティーとしての日本音楽に少しでも多くの人々が出会うことができるよう、その願いを繋げていきたいと思っている。
編集後記
『楽楽理会通信』第13号をお届けします。デジタル版の発行も3年目となり、やっと編集方式も定着してきました。
本号には、昨年の総会で前和男会長からバトンを引き継いだ加納民夫新会長のご挨拶と楽理科主任の報告に加えて、卒業生のマキシム・クリコフさん、新入生の高友康さん、坂東愛子さんにご寄稿いただきました。皆様、ありがとうございました。なお、『楽楽理会会員名簿』2014年度版の頒布案内も別途掲載しています。そちらもどうぞご覧ください。
発行:楽楽理会(会長・加納民夫)
編集:土田英三郎、塚原康子、越懸澤麻衣、鎌田紗弓
2015/07/31発行