第14号

前和男さんの思い出

加納 民夫(楽楽理会会長)

前和男氏遺影
(2015.7.30 逝去) 

楽楽理会第2代会長の前和男さんが亡くなって、この7月30日に一周忌を迎えます。
 前さんは、私にとっては楽理科の大先輩であるだけでなく、仕事上の大先輩としてたいへんお世話になった大恩人です。しかし、前さんはそんな私事では語り尽くせない大音楽プロデューサーであり、日本の音楽の現場をいろいろな形でリード、サポートされたスケールの大きな方でした。
 前さんは1934(昭和9)年生まれ。私の一回り上の戌年です。1959(昭和34)年に楽理科を卒業されてNHKに入局、福岡局に配属されました。そこでは農林水産番組など一般番組を手掛けるとともに、創立して間もない九州交響楽団の番組などを制作されます。数年して東京芸能局に異動、以来クラシック音楽番組を中心に録音プロデューサーとしてFM放送黎明期のステレオ収録の手法を確立されました。その後、洋楽担当部長を経てN響常務理事、神奈川フィル専務理事、サントリーホール総支配人、札幌コンサートホールKitara館長などを歴任、2011(平成23)年には文化庁所管の日本芸術文化振興会が文化・芸術への助成金のあり方を策定するために試行的に発足させた日本版アーツカウンシルの初代プログラム・ディレクターに就任されました。このアーツカウンシルは、前さんのご努力により5年間の試行を経て、この4月から正式に運用が始まっています。
 私は1970(昭和45)年にNHKに就職して前さんと出会い、音声収録のノウハウ、放送演出の手法等を伝授されたほか、N響に出向した際にオーケストラ・マネジメントの指導を受け、さらには日本版アーツカウンシルの分野でも教えを受けました。ですから私の人生の半分以上のシーンで一緒に仕事をさせていただき、得るものも多大でした。
 一方、前さんは趣味の世界も幅広く、究極のオーディオ・マニアとしてイギリスの名門タンノイのオートグラフという巨大なスピーカーシステムをジョイントするケーブル類をいろいろと交換しながら楽しんでおられましたし、N響の地方公演で空き時間ができると、ローカル線乗車を楽しむ「乗り鉄」を堪能されていました。函館公演にご一緒したときの帰路では、前さんのリクエストで、指揮の外山雄三さんと共に廃止直前の青函連絡船に乗って青森に渡り、在来線で帰京したことも楽しい思い出として記憶しています。もっとも、前さんの趣味を、私がさらに煽っていたのかも知れませんが。


卒業生より

『ラケットを笛に替えて』

豊田耕三

 開口一番こんなことを書くと先生方に怒られそうですが、自分は学部時代の大半テニスをしていた不届きな学生でした。それが今は何をしているのか?今はアイルランドの伝統音楽を演奏することを生業にしています。通称アイリッシュ・フルートと呼ばれる木製のフルートを演奏しています。なぜこんなことになったのか、順を追って書いてみたいと思います。
 大学4年の2004年9月、大学院入試の勉強からの現実逃避でアイルランドの笛、ティン・ホイッスルを始める。2005年4月、芸大にケルト音楽同好会g-celtをつくる。2006年2~3月、初めてアイルランドへ。現地のトッププロの演奏を聴いてプロの演奏家になることを決意。アイリッシュ・フルートを始める。2006年は修論を書きつつ、中学校の非常勤講師もやりながら、年間100本を超えるライヴを行う。修了後音楽教育研究室の助手を3年しながら某テーマパークで2年間演奏しつつ、外でもライヴ活動を行う。アイルランドには何度も行き、特に2010年には2ヶ月半武者修行の旅を敢行。現在はフリーランスとして、ライヴ、レッスン、レコーディングなどを中心に活動。
 と、ここまでざっくり書くと、何とも順風満帆な感じがしますが、実際にはそんな訳はありません。リーマンショック、東日本大震災等、何かある度に仕事があっという間に無くなる、吹けば飛ぶような生活基盤の脆さ。お金の無いアイルランドの庶民の音楽故に、基本的に動くお金の単価が安い。おまけにフルートは身体的負担が大きく、いつも故障を抱え、2ヶ月半のアイルランド武者修行が過酷過ぎて回復するまで2年程満身創痍だった時期もありました。また、この時期は人間的にも未熟過ぎて人間関係に多く悩みました。25~30歳までは本当に生きるのが大変な5年間でした。
 今では体調は奇跡的に回復し、アレクサンダーテクニークによって身体の使い方を根本から変えて故障も無くなり、考え方を改めた結果、周りの人達にも助けられ、生きるのが随分楽に、そして楽しくなりました。不思議なもので、そうなってからは思わぬ幸運が降ってくるケースが多くなりました。7年前に立ち上げたアイリッシュ音楽とダンスのフェスティバルIntercollegiate Celtic Festivalは、実行委員の学生さん達のお陰でこちらの想定を超えて大きくなり、それがきっかけで各地の大学にアイリッシュ音楽やダンスを楽しむサークルが次々につくられ、学生の人口は爆発的と言っていい勢いで増えています。また、ダンスの伴奏をずっとやってきたことが功を奏し、自分が主宰するケーリーバンド(ダンスの伴奏専門のバンド)が、6月に日本国内で初めて行われたコンペティションで優勝し、自分自身のいくつかの個人部門と共に、8月にアイルランドで開催されるフラーキョールという本戦に日本代表として出場することになりました。さらに、ひょんなことから地元千葉県船橋市の二宮神社の神楽囃子連に所属し、地元の伝統芸能の担い手という別の顔を持つことになったのもここ5年の話です。
 経済的な部分は今でもなかなか大変で、今のところ何とかなっちゃっているという感じです。それでも自分の裁量で生きられ、周りの人達の有り難さを直接感じられるこの生き方は気に入っています。この先は自分を育ててくれた社会に少しずつでも還元するべく、精進できたらと思っています。


近況

荻野珠

 学生時代は植村ゼミにお世話になり、日本東洋音楽史を専攻していました。大学を出て働き始め、今年で5年目です。新人気分が抜けずに実力はへなちょこ、周りから見ればそろそろもう少し…といったところでしょうか。
 ひょんな縁から勤めているKAJIMOTO(旧梶本音楽事務所)は今年で創立65年になる、クラシック音楽関連の招聘・マネージメント業では草分けにあたる会社です。現在はパリや北京にもオフィスがあり外国籍の社員も11ヵ国と多く、多様なプロジェクトがあり、「新しいことをやりたい」という社風。チャンスには恵まれている環境です。
 世界一と言って差し支えない某ピアニストの楽屋に、急遽、リハーサルが終わるまでに茹でたニンジンを用意しなければならない、あと30分!というような現場対応から、お金の計算をしてチラシを作って時刻表を確認といったデスクワーク、一筋縄ではいかない相手と笑顔で交渉、等々、いくらでも忙しくなれる業務内容です。
 「中国が専門だったよね」と命じられ、昨年は中国フィルハーモニー管弦楽団の来日公演を担当しました。実際に身を投じてみると、中国式のダイナミズムに圧倒され、大小様々な場面で物事が難航。せっかくの機会なのだから、学生時代を思い出して、一歩引いて観察する視線を持とう…そう思えば興味深い事象のはず…と努め、なんとか耐久できたような気がします。
 今年は、ブーレーズの訃報をうけてポリーニから日本でも追悼企画をしたいとリクエストがあり、準備の時間が限られている中で、船山隆先生にご講演をお願いしました。年末には、担当している、武満徹没後20年に寄せる映画音楽のコンサートがあります(←宣伝ですが、本当にいい企画です!ご興味のある方は是非!)。
 この仕事をしていなければ味わうことのなかった感激や、当事者になって汗をかいてみて初めて学ぶことあり、また一方、芸大出身の大先輩との出会いや一緒に学んだ仲間との再会ありと、瞬間にやりがいを見出しながら、日々の苦労を買っているような感覚で過ごしています。これからも、少しずつ、出来る事の幅を広げていければと思っています。
 最後に、不肖の卒業・修了生でありながら諸先輩方の活躍による“楽理出身という下駄”で乗りきれた場面があること、皆様の成果の知らせに励まされていることに、この場を借りてお礼申し上げます。