第22号

卒業生からの寄稿

「どんな場所でも自分らしく、好きを胸にしなやかに生きる」

品川 愛子

 今回寄稿のご依頼をいただいたとき、本当に驚きましたが、私のささやかな体験談をシェアできることを心から嬉しく思っています。というのも、私は楽理科に入学してから現在に至るまで、どちらかというと紆余曲折の多い日々を過ごしていたからです。

 私は平成21年に楽理科を卒業し修士課程に進み、中国北京の音楽大学の博士課程で音楽学を学びました。帰国後に会社員として8年間勤務した後(二度の産休・育休取得)、今年の4月から個人事業主として独立し、翻訳や通訳(中国語)、貿易実務、人事関係の仕事など業務委託を掛け合わせています。

 振り返ると、私にとって楽理科での生活は、大きな刺激と挑戦、そして挫折の連続でした。同級生や先輩方は知識豊かで才能溢れる人々が多く、その輝きに圧倒される日々を送りました。学ぶことや音楽が好きだった私は、どうしても芸大の楽理科に入りたくて、自分なりに努力してなんとか入学することができたのですが、仲間たちの優秀さに触れるたびに自分への劣等感と向き合わなければならず、地方から出てきた自分を惨めに感じることも多かったというのが正直なところです。

 そんな中、私の音楽人生を大きく変える出会いがありました。植村先生の東洋音楽史概説の授業で初めて京劇に触れました。そのときに先生が見せてくれた「覇王別姫」という映画が、私の転機になりました。中国という国と京劇の大陸的なパワーに魅了され、私の興味を中国音楽へと向かわせるきっかけとなりました。

 その後、北京で一年間の交換留学を経て、同じく北京の音楽大学の博士課程に入学、「中国伝統音楽理論専攻」でただ一人の留学生として中国人学生と切磋琢磨する日々を送りました。本当に楽しい日々でした。日本ではなかなか聴くことのできない中国の多様な民族やジャンルの音楽、専門的な書物の恵みをシャワーの様に浴びながら、私の一生の財産とも言える貴重な時間を過ごしました。

 しかし私はアカデミックには進まず、2016年に帰国し、民間企業に就職しました。中国語を活かせる仕事でしたが、音楽とは全く関係のない業務に従事していました。地元では音楽関係の仕事が少ないことや自分の能力不足の問題でアカデミックに進まなかったことは、帰国してからずっと大きなコンプレックスでした。

 そんな時、楽楽理会通信(第19号)の「卒業生からの寄稿」で先輩の言葉に出会いました。「音楽学が社会の役に立つのではなくて、音楽学を学んだあなたが役立つ」という言葉が、私の心の支えとなりました。思わず私はこの言葉を手帳にメモし、「音楽学を学んだ私」を活かす方法は何かと模索してきました。

 楽理科は素晴らしい先生と仲間たちがいる特別な場所でした。楽理科を離れた後、「音楽学を学んだ私」をどう活かすか、その答えは簡単には出ませんが、一つ一つの地道な行動が実を結ぶと思っています。「音楽学を学んだ私」を活かす道は正解がなく、家庭や経済面ともバランスをとりながら、自分で納得できる道を見つけるしかないからです。たとえどんな場所にいても自分の気持ちがワクワクすることをキャッチして、それを突き詰めていく楽しさとたくましさ、しなやかさの基礎を作り、世界の広さと多様性を教えてくれたのが、楽理科での学びだったと感じています。「花椒企画」という屋号で活動を始めた私は、今後自主事業として「音楽学を学んだ私」を活かし、地方と東京の文化格差を埋めるため、小さくともインパクトのある社会貢献をしたいと考えています。

 


ロートリンガー通り18番地から

中村 伸子
(ウィーン国立音楽大学エクシルアルテ・センター)

 この原稿のご依頼をいただいたとき、お引き受けして良いだろうか、と少しためらいました。私は楽理科の学部・修士課程を終え、博士課程3年目の2016年にウィーンへ留学しました。当初は数年で帰国し、博士論文も芸大へ出すつもりだったのですが、延ばしに延ばした末に満期退学となり、未だに提出できていません。現在、ウィーンで博論を出すべく執筆を進めていますが、お世話になった楽理科の先生方や友人たちに満足な報告ができない状況に、ずっと後ろめたい気持ちがあるのです。とはいえ、ある程度マイペースでいられる今の環境をありがたく感じることもあるので、そんな近況を綴ってみたいと思います。

 先述のとおり博士号は取得していませんが、未だに信じられないことに、昨年秋からウィーン国立音楽大学で無期限のポストに着くことができました。大学内のエクシールアルテ・センター(Exilarte Zentrum)という研究施設で、作曲家エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトの書簡全集を編集する研究員を務めています。芸大では卒論も修論もコルンゴルトについて書き、友人を集めて「コルンゴルトを広め隊」という演奏会シリーズを企画するほど、のめり込みました。とある先生の「もう少し対象を広げたら」という、将来を考えたら当然のご助言もそっちのけで頑固に突き進み、ウィーンに来て、気づけば、いわばコルンゴルトで就職してしまいました。

 エクシールアルテ・センターは、第二次大戦中にナチスの迫害を受けた主にオーストリア(オーストリア=ハンガリー帝国)出身の音楽家について研究し、世界中に散り散りになった資料をウィーンに呼び戻してアーカイヴ化し、演奏会、企画展示、楽譜・書籍出版などの幅広い活動を通して失われかけた記憶・記録をよみがえらせています。ブルノ生まれでウィーンに育ったコルンゴルトも、センターの重要な研究対象の一人です。彼のように米国へ亡命した音楽家が多数を占める一方で、アジアやオセアニアへ逃れた者もおり、センターの同僚たちは毎年様々な国々を訪れては当事者や遺族と交流し、資料を集め、国際的な共同研究・企画を行なっています。

 第二次大戦で日本がナチス・ドイツと同盟関係にあったこともあり、この時期にオーストリアから日本へ亡命した音楽家の情報は今のところなく、日本との共同企画をしにくいことは少々残念です。ですが、アーカイヴが育っていく現場に立ち会えることは常にエキサイティングですし、一昨年はフリッツ・クライスラーの亡命者としての側面に焦点を当てた企画展示のキュレーションを担当しました。芸大の大学史史料室でアルバイトをしたときに芽生えたアーカイヴ構築への興味や、必修科目が多く免許取得を断念した学芸員への夢が、思わぬ形で実現し、急がなくてもたぶん大丈夫、という小さな自信になりました。

 パンデミックが落ち着き、日本からウィーンを訪れる人も増えてきました。親しい人とウィーンで再会できるのはもちろんですが、楽理科の友人や先輩・後輩と会えるのは特別に嬉しいものです。初めて知り会う楽理科同窓生でも、あの無機質な5号館で彩り豊かな音楽を学び、日の出前の萬福寺で声明を聴いた者同士、というだけで他に変え難い親近感を覚えるのは、きっと私だけではないでしょう。ウィーンにお越しの際には、ロートリンガー通り18番地の研究室にお立ち寄りいただければ幸いです。その頃には博論が書き上がっていると良いのですが・・・!