第23号

楽理科クロニクル

 

楽理科学生のころ

角倉 一朗

 私は高校時代から趣味で池内友次郎先生に和声を習っていた。先生からは作曲科を受けるように勧められたが、私は創作の才能が乏しいことを自覚していたし、本や楽譜をコツコツ読む方が性に合っていた。池内先生にその話をしたら、芸大には楽理科というのがあるよと教えられた。叔母(母の妹)が戦前の声楽科出身だったので、受験用のソルフェージュを教えてもらった。

 私が入学したとき、同学年の楽理科生は25人で、その内男子は5人だけだった。専任の教官は作曲の長谷川良夫先生と西洋音楽史の服部幸三先生のみ。服部先生の授業はまことに整然としていて、そのときのノートはのちに自分が教師になったときにも使わせていただいたほどである。田辺尚雄先生の音響学も面白かったし、トーマス・マンの翻訳で知られた実吉捷雄先生のドイツ語も印象的で、原文を朗読したのち淡々と和訳されるのだが、それがそのまま印刷できるほど見事な日本語になっていた。私は高校2年から第2外国語としてドイツ語を学んでいたので、芸大では上級生の中級クラスに出席した。フランス語も高校の夏休みにお茶の水のアテネフランセに通ったので、芸大では中級のクラスから受講した。

 私は中学のとき病気で休学したので普通よりも2歳上だった。クラスで最年長だろうと思っていたら、さらに上が二人もいた。東京女子大の数学科を卒業した人と、地方の師範学校を出て中学の英語教師をしていたという男性だった。クラスの人たちは皆仲が良く、有志で夏休みに合宿したり、冬のスキー旅行を楽しんだりしたこともある。

 音楽についてはクラスメートから多くのことを教えられたが、音楽以外の話はあまりできなかったので、美校芸術学科の友人たちと雑誌を出した。「芸林評論」という大層な名前だったが、よくあるように、3号で廃刊となった。美術学部と言えば、油絵科の学生に親友ができた。小学校からの友人で当時は東大の学生だった男(のちに東大教授)とともに、この二人がわが生涯無二の親友になった。三人ともアルコールに強かったので、毎週飲み屋に通った。二人とも今はもういない!

 当時はまだ大学院がなかったので、卒業後に期間1年の専攻科に進んだ。非常勤で楽理科に出講されていた辻荘一先生の推薦で武蔵野音楽大学の講師になったが、教職員組合を作ろうとひそかに運動したのが大学当局に察知され、首謀者だった私だけが3年でクビになった。やがて楽理科の非常勤講師を経て1970から専任教員となり、2000年3月の定年まで30年間在籍した。学生時代を含めると、私は生涯の半数近くを楽理科とともに過ごしたわけである。