第23号

新会員からの寄稿

 

入学から二ヶ月経った

学部1年 宮嶋 望

 入学から二ヶ月たった。まだまだ満員電車には慣れず、上野公園に集う修学旅行生をかき分け、時折展開される屋台からのおいしげな匂いを感じながら、やっとの思いで登校している。ある日の駅階段踊り場に「〇〇中学楽しい上野マップ」なるものが落ちていて、私も試験の日、入学式の日には上野公園を新鮮な気持ちで通り過ぎていたな、と思い出す。

  試験といえば、口述試問が印象に残る。部屋に入るなりずらりと並ぶ先生方に圧倒され、自分の拙い小論文に対して、核心をつく指摘に絶句したのち、部屋をトボトボと後にしたのだ。その帰りの昼ご飯で半泣きになりながら、もりそばを3枚やけ食いしたことは、今となっては苦くも微笑ましい。

 そんなやっとの思い出入った藝大だが、授業は日々興味深く、ましてや高校のそれとはまるで違う。90分という高校の授業ほぼ2コマ分相当の時間感覚には苦労しているものの、新鮮な気持ちで先生の話に耳を傾け、コツコツと知識を蓄えている。もともと西洋音楽にしか触れ合わなかった自分は、やはり各概説の授業で知る世界のさまざまな音楽によって、いかに自分の視野が狭かったかを思い知ると同時に、人類がいかに音楽と密接かということも考えさせられるようになった。

 しかし、唯一授業の中で苦手なのがソルフェージュである。別に授業の内容が苦手なのではない。“朝”が苦手なのだ。特に月曜日の朝は私にとっては睡眠の誘惑と遅刻の恐怖のせめぎ合いである。オリエンテーション資料にはこんな書き込みがある。

 「ソルフェージュは訓練なので“出席を重要視します(赤字)”」。

 このやる気満ち溢れる資料の、まるで体育教師が言いそうな文言にやや驚きながらも、視唱やら、聴音をこなしている。

 また、大学附属図書館に初めて行った時には、圧倒的な蔵書に思わずため息が出てしまった。特にB棟二階から続く迷宮のような書庫は私の好きな場所の一つだ。ふと「自分では一生を懸けても、この本全てに向き合うことはできないだろう」と、人一人の限界が痛感された。古い本から新しい本まで、多種多様に自分を取り囲む本と接することで、まさに過去から累々と積み上げられた知識の一端を「体感している」と言うべきだろう。

 そして、本といえばふとあの「口頭試問」の寒々としたストーブ点る廊下の順番待ちで見た、ある先生の研究室のドアの印象的な張り紙が思い出される。

 「本を読め!バカになるぞ!」

 これから、本や授業を通して、たくさんの知識を吸収して、また、その恵まれた環境に感謝して勉強に励んでいきたい。


光に気づく朝、軽やかな夜

博士1年 許 慕瑄

 沼口先生から今回寄稿のご依頼をいただいたとき、光栄に思うと同時に、正直なところためらいも感じておりました。というのも、私はまだ東京藝術大学での生活が二年目で、心細さや不安に包まれるような日々も少なくなったからです。それでも、問いを抱えながら過ごすうちに、自分の内側で何かが少しずつ変わってきたのを感じています。今回このような機会をいただけたことに感謝しており、大きな発見を述べるつもりはありませんが、もし今、不安や戸惑いの中で日々を過ごしている方がいるなら、その方と、ほんのささやかな思いを共有できればと願っています。

 2024年4月11日は、私にとって、大きな節目の日でした。その日は、日本に到着した日であり、楽理科の授業に初めて出席した日でもありました。上野公園では桜が満開だったそうですが、それをゆっくり眺める余裕もほとんどなかったように思います。入国してからの日々は、新しい環境に慣れ、生活と学業の両立に努める──多くの留学生が経験するようなものでした。そんな日常の中で、夜私がひそかに大切にしている時間がありました。それは、帰路の途中で、これまであまり意識することのなかった問いを、少しずつ考えるようになったことです。

 ときには、同じ問いを何度も繰り返しながら──「目の前の痛みをどう解釈すればよいのか」と。「痛みはいずれ過ぎ去る」とか「乗り越えれば強くなれる」といった言葉を、私たちはよく耳にします。でも、もしその感情や経験が、ただ何か別の目標に至るための“通過点”としてしか見なされていないのだとしたら、それはただ抜けていくだけのトンネルなのか?そんな問いを、自分に投げかけていました。

 ある晩、自分にこう問いかけてみました──もし進学したとしても、今抱えている不安は、その瞬間にすべて消えてしまうのだろうか。あるいは、問いや迷いは依然として残るのだろうか。もしそうだとしても、自分はこの先へと歩みを進められるのだろうか。当時は、はっきりと肯定的な答えを持っていたとは、とても言えません。ただ、次第に感じるようになったのは──痛みや不安は、ただ未来の成果や報いによって意味づけられ、贖われるものではないのかもしれない、ということです。その意味は、未来に訪れるのではなく、「今この瞬間をどう経験するのか」にあるのかもしれない、と。

 こうした視点の変化は、日々の過ごし方そのものにも、少しずつ影響を与えているように思います。音楽学を通じて、音楽だけではなく、世界について新たな見方を手に入れられることに、静かな喜びを感じています。ゼミの時間を楽しみにしており、先生や仲間との対話に深く心を動かされることもしばしばあります。朝、窓から差し込む光に気づき、ふと立ち止まることがあります。夜研究室を出るときも、どこか足取りは軽やかです。明日をも楽しみに思える──たとえそれが、あたかも今日とほとんど変わらない一日であるかのように見えたとしても。