卒業生からの寄稿
「あわい」の場所から
出田 康一郎
楽楽理会通信への寄稿を依頼されたときは、正直驚いた。同時に、少し申し訳ない気持ちにもなった。あまりにも遠いところに来てしまっていて、確かに共に過ごした人々との時間も忘れかけてしまっている自分のことが、まるで恩知らずの放蕩息子のように感じられたからだ。
この寄稿文をしたためるにあたって、過去に寄稿された方々の文章にも目を通したが、みな音楽・芸術関係の分野で活躍されているようだった。それは、大学時代の私が思い描いていた私自身の将来でもあった。
しかし、私の人生はそうならなかった。私は大学卒業後すぐに台湾に渡り、現在に至るまで台湾で暮らしている。当初は語学留学の目的でやってきた台湾だったが、早々に学校を辞め、台湾のスタートアップ企業を渡り歩き、ソフトウェア開発者として生計を立ててきた。現在はその延長で、日本のベンチャー企業に所属し、台湾在住のリモートワーカーとして教育系のソフトウェア開発に関わっている。仕事は何かと問われれば、私はそう答える。どこにも音楽や芸術の話は登場しない。
リモートワークは時間の融通が利く働き方だ。だから、数年前から隙間時間を活用して大学院に通っている。このように書くと、仕事に関係のある情報技術を学び始めたか、はたまた学部から引き続き音楽学を再開したかと思われるかもしれないが、私が専攻しているのは台湾学だ。台湾人に混じって、「台湾とは何か」を、中国語や台湾語で学んでいる。
台湾人にとっての台湾学とは、自らのアイデンティティの再定義を目指して取り組まれる政治的な営みでもある。近年の台湾社会は、両岸関係の悪化に伴い、中国との差異化を指向する傾向が強い。その旗振り役とも言えるこの分野は、ナショナリズムという名の「情熱」がひときわ満ちているのだが、その空気に触れていると、どうにも共振しきれない自分にふと気づくことがある。私が日本人でありながら、台湾人と共に生きようとする境界的な存在だからだ。
思えば、いつも「あちら」と「こちら」を行き来しているような人生だった。私の妻は台湾人で、二人いる娘も、いまやほぼ台湾人だと言っていい。日本語は片言だし、私が食べ慣れない台湾の食べ物を好んで食べる。娘たちに向かって中国語を話しながら、それでも毎年大晦日に年越しそばを作って食べさせている私は、どっちつかずで、ひどく境界的だ。
しかし、境界的であるということは、決して悪いことではない。境界的であることは、世界を覆い尽くそうとする強い言葉から自由になることを可能にする。真理を語る言葉が易々と飛び交う現代社会において、憎悪と称賛が渦巻く濁流に飲み込まれない足腰の強さは、おそらく、境界的であることからしか得られない。少なくとも、私は自分にそう言い聞かせながら生きている。
音楽学という知のあり方もまた、音楽と言葉の狭間に息づくという点で境界的だと言える。美しい音楽を探求しようとする素朴さを前にして、美しさとは何かと言葉で問い直す。またその一方で、言葉では言い表せない、身体に直接作用するような音楽の力に目を向け、それを尊ぶ。理性と感性を共存させることを目指すような、境界的な知のあり方こそが楽理科が育む知であるならば、境界で生きる私の思考は、まさにそれに支えられているということにもなるだろう。
つい先日、『日本人のための台湾学入門』(平凡社新書)という書籍を上梓した。この本は、「台湾で台湾学を学ぶ日本人」という、きわめて境界的な立場から書かれたものだ。したがって、本書が提示する台湾学は、日本で日本人が発展させてきた台湾学とは異なるし、台湾で台湾人が取り組んでいる台湾学ともまた少し違う、新たな知のかたちだと言える。
私は、従来の知の枠組みでは捉えきれなかったいくつかの問題を、境界的な立場にいたからこそ乗り越えることができたのではないかと考えている。果たしてこの感覚が正しかったのかどうかは、時間の流れの中で静かに見定めていくほかないが、少なくとも今、私の手を離れ、その価値を世に問われようとしているこの新たな知が、境界的な —— すなわち、楽理科的なものであるという事実は、この場を借りて共有してもよいのではないかと思う。
楽理科では、指導教官の植村先生はもちろん、学年主任の大角先生にも大変お世話になった。いまの私は、音楽や芸術とはずいぶん離れたところにいるが、当時の経験は形を変えながら、確かに私の中に生き続けている。この寄稿文という場を借りてお伝えする私の近況が、植村先生と大角先生をはじめ、楽理科という場で時間を過ごしたすべての方々への、放蕩息子からのささやかな恩返しとなれば幸いである。