第22号

楽理科クロニクル

 

楽理科の16年間から(1985年〜2001年)

星野 宏美

 私が楽理科に入学したのは1985年4月。この連載のトップバッター、澁谷政子さんの1年後輩にあたる。学部4年、修士5年、博士6年、学振PD1年と、計16年、在籍した(修士、博士では各2年、留学のため休学した)。学部4年の1月に昭和天皇が崩御し、長い服喪と自粛があったものの、日本がバブル景気に浮かれ、ウハウハしていた時代である。海外に目をやれば、東西冷戦の終結、新たな戦争の勃発と、緊迫感が漂っていた。1989年、西ベルリン留学を志して奨学金を獲得した直後、ベルリンの壁崩壊のテレビニュースに釘付けになった。湾岸戦争勃発後、ケルンに留学中の佐藤望さん(1年先輩)を訪れ、カーニバル中止を憂いたり、モスクワ留学中の藤原順さん(同期)を訪れ、人々の困窮を目の当たりにしたりして、最初の留学では国際情勢への意識が否応なしに高められた。

 さて、我らが昭和60年入学組は、楽理科初の女性のみの学年だった。担任は、前年に着任された上参鄕祐康先生。第二外国語の二ヵ国語必修はなくなり、一ヵ国語となっていた。1年生の概論の授業で「フランス語できませーん」という私たちの弁解に、文字通り絶句された美学の福田達夫先生のお顔が目に浮かぶ。白砂昭一先生の音響学の授業で、同級生らと「水の泡」というミュージックコンクレートを、やぶれかぶれになりながら制作したこと、尾高惇忠先生の対位法の授業で、毎回、「美しくない」というコメントとともに、ペケをつけられたこと、柘植元一先生のフィールドワークの課題で、教会の礼拝の記録を恐る恐る提出したことなど、落ちこぼれた科目をより懐かしく想い出す。専門関係(西洋音楽史)では、すべての授業から多くを学んだが、敢えてひとつ挙げるのなら、大学院2ゼミ時代、角倉一朗先生、土田英三郎先生おふたりの指導下、毎週2コマ、丸々1年を費やした「ロ短調ミサ」ゼミは、世界のバッハ研究からみても最先端の充実度だったと思う。

 当時は、自主ゼミが盛んで、学部時代には、先輩方が主催する「19世紀ゼミ」に参加して、バロック主流の楽理科にてロマン派研究を志す勇気を得た。自分でも修士時代に同級生らを巻き込んで、「ベートーヴェン以後の交響曲」という自主ゼミを催した。博士時代には、総合ゼミ1回の企画が博士1年に任されるようになった。同期の小岩信治さん、沼野雄司さん、前原恵美さんと学際的なテーマをさぐったが、行き詰まり、土壇場で、小岩さんの閃きにより「論文を書こう」という実践的なテーマをたてた。日々の悩み事や研究上の醍醐味をざっくばらんに披瀝しあい、先生方や後輩らとのディスカッションも弾み、楽しい成功体験となった。

 TA、RAの制度が始まったのも私の大学院時代だった。1995年は、芸大のコンピュータ元年にもあたり、片山千佳子先生とともに美校の「芸術情報演習」を履修してPC言語やLANシステムを学び、「Muse(検索ソフト)マニュアル」や「ユードラ(E-Mail)マニュアル」などを作成した。しばらく0室に常備されていたはずだ。また、この頃、演奏の博士学生を楽理科の先生方が指導する機会が増え、そうした論文の体裁や日本語を整える役割が与えられて、四苦八苦した。苦行のご褒美のように、概論の授業2週分、「音楽文献学」を教えることになり、張り切って担当した。助手を経験しなかった私にとって、いずれも貴重な修行となった。

 最後に、忘れることのない悲しい記憶を。入学直後、合宿の幹事学年(院1)の石内貴子さんの訃報に接した。2年生の12月、楽理科を卒業してチェンバロ科1期生だった西原佳代子さんが急逝された。翌月の成人式の日、同級生の内野郁子さんが20歳で亡くなった。郁子さんの死後、担任の上参鄕先生、郁子さんのお母様と楽理科同級生にあたる船山隆先生が私たちの悲しみに寄り添い、支えてくださった。服部幸三先生が、概論の授業でご自身の戦争体験も交えて生きる意味について語ってくださったこと、沈み込む私を気にかけて自宅に何度かお電話をくださったことを、深い感謝とともに想い出す。