卒業生より
人生のベースキャンプ
近松 博郎
1996年度(平成8年度)学部入学の近松と申します。私の世代はちょうど楽理科および藝大の転換期に居合わせた感があります。ちょうど角倉先生ご在職の最終年に卒論指導を受けることができ、翌年からは大学院で新たに着任された大角先生の若々しいゼミに所属させて頂きました。しかし間もなく藝大も国立大学法人化の波を受け、以前のゆとりを急速に失っていったように感じました。
私は修論でパッヘルベルの声楽作品研究をテーマとしましたが、1次資料の扱いに手を焼き、修了後はすぐに学校の教員として就職しました。現在も都内私立中学・高校に専任教員として勤めております。楽器経験のある生徒はそれなりにいるものの、私の着任当時には少人数の吹奏楽部があるくらいで、音楽活動は目立ちませんでした。芸術鑑賞会の予算もかなり低額だったため、翌年から合唱コンクール形式に変えることを試みたところ、生徒・父母からは好評だった反面、継続は認められなかったのは初期の苦い思い出です。勤務校は男子校ということもあり、基本的には体育会系の気風が主流で、学校が最も力を入れている伝統行事は遠泳です(現時点で赤褌の着用も継続しています)。
労力を傾ける先の選択と集中を心掛けた結果、仕事にも多少の余裕が生まれました。そこで私が挑戦したのが博士課程への入学です。2004年にパッヘルベルの全作品主題目録が出版され、2008年からは『パッヘルベル声楽作品全集』の刊行がスタートするなど、最新の研究動向がどうにも気になっていました。また、修論の口頭試問で副査の土田先生が「あなたは就職とのことですが、やる気があれば勉強する時間は必ずとれますから」と言って下さった記憶も私の肩を押してくれました。こうして10年ぶりの学生生活を再スタートさせました。
2014年度には職場の研修制度を利用してドイツのハレ大学に留学し、声楽作品全集の校訂者であるW. ヒルシュマン先生の指導を受ける幸運に恵まれました。ただそれでも常勤職と学生生活の両立は困難を極め、最長在籍年数の7年間居座った挙句どうにか修了させて頂けたのは、ひとえに指導教員の先生方の教育的配慮のおかげです。
研究の進展状況はともかく、楽理科に復学して得られた経験は私の新たな糧となりました。勤務校で新しく立ち上げた弦楽同好会は生徒に様々な演奏機会を提供する場へと成長し、名手が揃っていた2020年2月に吹奏楽部と合同で都内私学の合同演奏会に出演してベートーヴェンの《三重協奏曲》第3楽章を演奏できたことは、コロナ禍拡大直前の記念となりました。そのときソリストを務めた生徒たちは、今年4月からそれぞれ藝高、桐朋音高、東京音大で学んでおり、他に1名が藝大声楽科に進学しました。また私自身も、楽理科先輩の大塚直哉先生と一緒に古楽科学生の修論指導を担当させて頂いております。
楽理科は私にとってまさに「ベースキャンプ」であったといえます。今後も様々な学生がそこを通り、また立ち返ることのできる場としてあり続けてくれる ことを切に願っています。
「楽理科で音楽学を学んだ私」が社会の中でできること
長井 覚子
平成13年入学の長井覚子(旧姓大沼)と申します。楽理科を卒業後、藝大音楽教育研究室の修士課程、博士後期課程を経て、現在は東京都小平市にある白梅学園短期大学という保育者養成校に勤務しています。学内では音楽関係科目を担当する他、現在は「施設実習」の指導責任者にもなっています(保育士資格を取得すると児童養護施設や障害児・者施設等の福祉施設で働くこともできるため、これらの施設での実習が必要となります)。白梅では伝統的に「実習指導は全員体制で」となっており、専門の教員ももちろんおりますが、すべての教員が何らかの形で実習にかかわることになっています。専門外の内容ではありますが、社会には様々な困難を抱えた方々がいること、そういった方々を社会全体で支えようとする仕組みを学生と共に学んでいることは、大変大きく、貴重な経験となっています。
最近は、10代の若い学生たちを目の前にして、自分の学生時代を振り返ることも多くなりました。受験生時代はとにかく「藝大の楽理科に合格することが目標!」と走ってきたので、運よく合格できた後はしばらく目標を見失い、悶々としていたこと。その後なんとか気を取り直し、あまり積極的ではない性格の自分にしては珍しくとにかく色々なことに手を出したこと。友人宅に泊まり込んで演習発表の準備をしたこと。バッハ・カンタータ・クラブに所属したこと。カンタータ・クラブの後は夜通し(夜が明けるまで?)谷中のファミレスや上野の居酒屋でおしゃべりしていたこと…(笑)思い出し始めると枚挙に暇がありません。あまり真面目な学生ではなく、「浅く」はありましたが、「広く」様々な経験をさせていただいたことは、間違いなく今の私を形づくってくれた大切な時間でした。
その後修士課程に進学してから、音楽学を学ぶ・学んだということが社会にとって、自分にとってどのような意味があるのかということを悩んだ時期がありました。その時、ある楽理科の大先輩から、「音楽学が社会の役に立つのではなくて、「音楽学を学んだあなた」が社会の役に立つんだよ」という言葉をかけていただいたと記憶しています。楽理科での学びを経て、保育・教育領域を研究テーマと定め、教職に就いたのは、自分が社会の中でどのように生きていったら良いのかという問いに対する自分なりの答えだったように思います。
授業を行うこと、実習にかかわること、一人ひとりの学生と向き合おうとする日々は慌ただしいながらも充実した時間ではありますが、一方で二度の出産もあり、最近では個人の研究に取り組む時間がなかなか捻出できていないことも事実です。楽理科時代の卒業論文に選んだテーマは、我が国の保育においてピアノがどのように導入され、普及したのか、そのルーツと定着過程を探るというものでした。ご指導いただいた塚原康子先生が日本における西洋音楽の受容史を研究なさっていたことに興味をもってのことだったと思います。現在でも、我が国の保育における音楽活動のあり方を歴史的視点から検証するという研究や、乳幼児期の音楽表現の育ちに関する研究を続けています。なかなか腰を据えて史料や子どもたちの姿に向き合う時間が確保できない現状ではありますが、隙間時間を上手に活用しながら研究をしていくことが目下の目標です。