横道萬里雄先生を偲んで
土田 英三郎
横道先生の思い出はいろいろありますが、主として東京芸大楽理科の同僚としてお付き合いさせていただくようになってからのことです。大きな影響を受けたのは、講義でも会議でも日常生活でも、先生の徹底した合理主義、深い洞察力に裏付けられた、まったく無駄のない言動です。ご自宅の電話番号は公開せず、いつもセカセカと早口で、リング状の単語カードに記されたメモを繰りながら講義をされていたのを思い出します。文房具マニアでも知られ、御退官の際には菓子箱に入った一セットを楽理科に残していかれましたが、これはずっと私が保管していました。格別に変わったものはないけれども、すぐれて実用性と機能性に富んだセットです。かといってけっして冷たいのではなく、バランス感覚があり、他人に対しては思いやりにあふれていました。酒の席ではユーモアを発揮され、良い酒で、ご一緒するのが楽しかった思いがあります。
いちばん印象に残っているのは、1986年の古稀のお祝い「楽劇の集い」でご一緒したことです。先生は露払の舞を務められ、その後、能楽界の錚々たる顔ぶれが法要体験や歌舞伎(《車引》)を演じられました。全く門外漢の私にもどういうわけかお声がかかり(おそらく上参郷先生の思い付きで)、後半の沖縄舞踊《二十日正月》で〈前の浜〉のクインテットを矢向正人さんたちと担当しました。夏休みを通して猛稽古にはげんだ甲斐があり、どうにか格好がついたようです。指南番の中村茂子先生からは「筋がいい」とおだてられました。国立能楽堂の舞台で舞を舞う機会など、もう二度とないでしょう。ふだん西洋音楽のことしか頭にない私には、別世界にまぎれこんだような、でも一生の思い出となる出来事でした(横道先生は1957年の町田佳聲先生の古稀祝賀会で、《二十日正月》の〈忍び〉を担当され、男女密会の場を艶やかに演じられたそうです)。人前で踊ったことのない私が、かなり厳しい稽古に耐えられたのも、先生の楽劇学の理念を深く理解していたから、では全然なくて、人生意気に感ずで、この人のためならいっちょうやったろかいという気になったからです。「楽劇の集い」はビデオが残っているはずなので、どなたかYou Tubeにでもアップしていただければ面白いのだけれど、出演者全員の了解を得るのは難しいでしょうね。
1976年から1984年まで楽理科教授を務められた横道萬里雄先生は、2012年6月20日逝去されました。心よりご冥福をお祈り申し上げます。
なお、このたび、横道先生の藝大最終年度(1983年度)の講義にもとづく『横道萬里雄の能楽講義ノート【謡編】』が、同書出版委員会の編集により檜書店から刊行されました。続編の【囃子編】も期待されます。
入学40周年を迎えて―楽理科合宿50周年に寄せて
森 泰彦
集められたのは(旧)奏楽堂1階の、埃っぽい教室だった。楽理科の「合宿」というものの案内である。参加するかどうか、実はためらいがあった。団体や集団というのがどうも性に合わず、休みにはやりたいことがたくさんあって、4日も家を空けるのはちょっとね、という感じもあった。「安田講堂」の翌年から高校時代を過ごしたので、そもそも「大学進学」というものに正面きって肯定的ではなく、入学してからも、裏方の仕事を含めて音楽会に足繁く通ったり、争議中のオーケストラに関係した運動に加わったりしていて、魅力的な授業にも新しい友人にもすぐ出会ってはいたものの、芸大や楽理科にそれほど深入りしようとは思っていなかった。今から見れば、何も知らないくせに生意気かつ自意識ばかり強いわけでまったくお笑い草なのだが、当時の大学生の風潮の一部として、今となっては記録に留める価値があるかもしれない。
しかし、いつのまにやら40年連続参加、結局のところ芸大にも楽理科にも、少なくとも片足ぐらいはどっぷり浸かってしまって今日にいたる。H先輩に昼夜教え込まれたビールゆえだろうか、鉄の結束を誇る常連男子学生が毎年つづけていた過激かつ抱腹絶倒の登山ゆえだろうか、次々と襲ってくるK先輩のクイズに負けまいとしたためだろうか、ナポレオンやらたほいやでの虚々実々の「口撃」が捨てがたいからか、世代を超えたいろいろな議論が楽しいからだろうか。なぜそうなったのか、答えは焦点を結ばない。幹事になって宿を予約するとき、「何をする合宿ですか」と尋ねられて答えに窮するのと同じことだ。あえて言うならば、「楽理科の合宿とは、楽理科の合宿を楽しむための合宿である」と答えるしかないだろう。きわめて「自律美学」(?)めいた答えだが、3回以上この合宿の輪に加わった人になら、「他に答えようがない」と賛成してもらえる可能性もあるのではないか。
合宿が始まったのは1962年、昨2012年でちょうど50周年ということになる(最初が第1回だから第51回。まちがえやすいので念のため)。創始者のひとり佐野光司さん―近年復活して毎年参加。最初期と近年を実際に知る唯一の人物であるだけでなく、すべてを愉しむ意欲では今の在学生をも感嘆させる―によると、社会に出た時のために在学者間の親睦を深めておこうということと、当時秋の芸術祭で毎年開催されていた楽理科主催の討論会の準備という明確な目的があり、当初富士五湖周辺で展開されたこの合宿は、そういう意味では「ふつう」のものだった。合唱の練習も含んだこの集まり、最初の時期を過ぎると「上からの規律」に対する反発があったりして、親睦を図る以外の面は徐々に後退する。開催地が主に長野県とその周辺の高原に移ったのが私の入学する何年か前。新入生として参加したのは通算12回目だったことになる。直接知る最初の頃は、7月中旬に民宿で3泊4日。最初の晩に自己紹介、2日目に全員での軽登山ないしハイキング、3日目は自由行動日(1977年から「選択コース」制)+夜にコンパ、最終日は上野か新宿に着いて、参加できなかった人々にしばしば出迎えられて打ち上げ、というのが典型的な日程。終電を過ぎてまで盛り上がってもう一泊外泊となる参加者もいたりした。
1970年代後半から80年代はかつて「山岳党時代」とも呼ばれた。明け方までナポレオンなどに熱中する男子学生たちが中心となり、ろくろく寝ないで3日目の「健脚コース」、すなわち宿の近くでの登山という荒行に赴くのである。この面子、結束が強く人数も多かったので、1977年に初めて参加された服部幸三先生から、「ほう、楽理科ってこんなに男が多かったんですか!」と満面の笑みで言われてしまった(何人かは顔を伏せる:「どうせ俺たちゃ出席が悪いさ」)。また何年にいっぺんかは毎年たくさん参加する仲良し学年が出現し、集団を活性化させた。この完全徹底遊び型の合宿の隆盛−1987年には参加者66名と、正確な記録がある中では最大人数−に貢献したと自負して、「われわれこそ中興の祖だ」と、わが同級生ETはときおりつぶやく。
曲がり角は1990年代半ばに訪れた。日程はやがて1日短縮され、世紀の変わり目を過ぎたあたりから学部上級生の参加が減りはじめる。7月に集中講義が増えて合宿の時期が遅くなり、帰省する上級生が参加しにくくなったこともあろうが、今から考えれば「バブルの崩壊」がそれなりに影を落としていたことが想像される。授業料も上がっていたし、楽理科の求心力にも変化があった。後で耳にした話だが、合宿の存続の是非についてアンケートをとった幹事学年(修士1年生)もあったという。
とうとう芸大まで90分授業を半期15回実施するよう「正常化」されたため時期がさらに遅くなり、監督官庁から修士・博士ともに短期間で学位を取るよう求められる昨今、それにもかかわらず伝統の合宿はつづいている。むかしほどではないにしても、常連の学生と卒業生、さらには他科出身の常連、そして仲良しクラスはあいかわらず出現するし、夜間(と明け方?)の盛り上がりも相変わらず。またその影で、あちこちで人生論やら音楽論やらの輪が自然とできるのも同じ。
音楽学関係の学会などで他大学出身者と昵懇になると、ときに言われる。「芸大楽理科卒は人数が多いし妙に仲が良いから、こわいと思っていたことがある」と。音楽学の専攻課程として圧倒的に定員が多いのだから前半は制度的な問題だが、「仲の良さ」はあの合宿抜きには考えられない。何しろ学部1年生が教員や親ほども歳の離れた先輩と、対等にゲームをしたり一緒にバカをやったりして知り合う機会などというのは、世の中にそうあるものではないし、18を過ぎてからとんでもない失敗を晒しあった相手(「共犯」)がたくさんいるというのも、まったく「体育界」系的でない世界では珍しいにちがいないからだ。新入生の時に参加することにした理由はもはや記憶にない。参加していなかったら別の人生が待っていたかもしれないが、これからも後悔はしないような気がする。さあ、今年ももうすぐ合宿!
NB: 公の場でこうして培われた親しさを集団で発揮しすぎて「こわい」などと思われるのは良いことばかりではないので気をつけましょう。
※「学生の自主的な活動」ということを重んじて、個人的な恩師以外は敬称をすべて「さん」に統一した。ご了承願いたい。